文覚上人|伊豆で頼朝に旗揚げを促した人物、恋に修行に祈禱に激しい僧侶の屋敷跡(石碑を読む)

文覚上人|伊豆で頼朝に旗揚げを促した人物、恋に修行に祈禱に激しい僧侶の屋敷跡(石碑を読む)

2022-01-22

今回は金沢街道の大御堂橋近くにある文覚上人に関する石碑を読んでみました。
好きな人を間違って殺してしまったり、めちゃくちゃな修行をしたり、とっても激しい人だったらようですね。

文覚(遠藤盛遠)

1139-1203年。武士、真言宗の僧。
神護寺(京都)の再興を後白河天皇に強訴し伊豆国へ配流され、そこで源頼朝と知遇を得る。

摂津源氏傘下の武士団「渡辺党・遠藤氏(渡辺党の棟梁は源頼政)」の出身。

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大河ドラマ「鎌倉殿の13人」では、市川猿之助さんが演じられます。

文覚上人屋敷迹

文覚上人屋敷跡

「文覚上人屋敷迹」石碑の場所

石碑に書かれている文字は?

文學俗偁ヲ遠藤盛遠ト言イ
モト院ノ武者所タリシガ年十八想ヲ左衛門尉源渡ノ妻袈裟御前ニ懸ケテ誤ツテ之ヲ殺シ愴恨ノ餘僧ト為ル
其ノ練行甚ダ勇猛ニ寒盛暑林叢露臥シ飛瀑ニ凝立シ屢死ニ瀕ス
養和二年四月頼朝ノ本願トシテ辨財天ヲ江島ニ勧請シ之ニ参籠スル事三七箇日食ヲ断ツテ祈願ヲラセリト
此ノ地即チ其ノ當時文學ガ居住ノ旧迹ナリ

大正十一年三月建 鎌倉町青年團

文覚、俗称を遠藤盛遠と言う
元々は院の武者だったが、十八才の時、左衛門尉「源渡」の妻「袈裟御前」に心を惹かれたが、誤って袈裟御前を殺してしまい後悔のあまり僧侶となった。
僧での修行はとても勇猛で、厳冬・猛暑の中、草むらの中で野宿し、滝に立ちしばしば死に瀕した。
1182年(養和2年)4月、源頼朝の願いで弁財天を江の島に勧請し、断食しココに参詣すること37日間、一心不乱に祈願した
この場所は、当時の文覚が住んでいた場所である

大正11年3月建 鎌倉町青年団

※間違っていたらごめんなさい。

事前知識(漢字・用語編)

:キャク|反対に、しりぞく
愴恨:ソウコン|心をいためつけられて恨む
:キ、おお|おおいに、さかんに
:そうりん|草が群がり生える林、禅寺
:ろが|野宿すること
:しば|しばしば、しきりに
本願:ほんがん|本来の願い
:ギョウ|こりかたまる、一点に集中する

事前知識(歴史編)

源渡

北面の武士。妻は美女で、遠藤盛遠(文覚上人)に恋慕された袈裟御前

養和二年

1181年。晩夏から翌年初夏にかけての10か月間。安徳天皇の時代。源氏はこの元号を使っていない。

文覚上人ゆかりの地

坐禅川(鎌倉市)

鎌倉市内を流れる「滑川」は上流から名称がコロコロと変わっていきます。
文覚上人屋敷の目の前を流れる「滑川」は別名「坐禅川」。鎌倉十橋夷堂橋の石碑に書いてあります。

僧である文覚上人が住んでいた(よく坐禅を組んでいた?)ことからついた名前だそうです。

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萱の御所跡(福原京)

平清盛に幽閉された後白河法皇がいた、福原京萱の御所跡(現薬仙寺)
配流地だった伊豆から赴いて、平家追討の院宣を出すように方法に迫り、結果、わずか数日で頼朝に院宣をもたらす。

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神護寺(京都)

文覚上人が再興した京都高雄山にある真言宗の寺院「神護寺」。
コチラの再興を、後白河上皇に強訴した関係で伊豆国に流罪となり、源頼朝と出会うきっかけとなりました。

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歴史タイル(伊豆韮山)

文覚上人は、源頼朝が蛭ヶ小島で流人生活をしていた時からの知り合いなので、韮山駅~蛭ヶ島公園間の道路に埋められた歴史タイルで紹介されていますね。

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六代御前の墓

六代御前とは「平高清(たいら たかきよ)」の事。父は平維盛(重盛の嫡男)。
平家滅亡後に北条時政に捕らえられたが、文覚上人が助命嘆願をして死刑を免れ、文覚が身柄を預かった。

文治元(1185)年12月24日

文覚上人で弟子が鎌倉に来て頼朝に伝えた。

使者「故維盛卿の嫡子六代公は文覚の弟子なのに死刑になろうとしている。平家はすべて追討、祖父の平重盛は頼朝の為に真心をつくされた、このような幼いものを許しても何の問題がありますか?」

頼朝「文覚上人の訴えは無視できないが、六代は平将軍の正統の流れ。今は少年だがいずれ成人になるから誅すべきだ」

しかし使者の僧のお願いが再三に及んだので、しばらく文覚上人に預けることとなった。

後に、文覚が流罪となったため、六代も捕らえられて処刑されたとするが、時期や内容については不明。

Side Story(文覚上人出家の理由)

人妻(従兄弟で同僚だった渡辺渡)の袈裟御前に惚れた文覚上人は「夫と別れて俺の妻になれと」強引にプロポーズ。

すると袈裟御前は「今夜、寝静まった夫を寝室で殺してください」と。文覚上人は、言われたとおりに寝室で人を殺すと、それは袈裟御前だった。袈裟御前は、夫と文覚との三角関係の中で悩んで、自分で死を選んだのかもしれませんね。

※この物語は「源平盛衰記」の創作の様ですが。

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