針磨橋|今後の主流?石碑から案内板へ変わった旧跡案内(石碑を読む)

針磨橋|今後の主流?石碑から案内板へ変わった旧跡案内(石碑を読む)

2020-09-09

今回は江ノ電極楽寺駅から海へ向かって進んだ場所にある「針磨橋」の石碑を読んでみました。
というか、住居の建て替え?時に石碑から案内板に変わってしまいました。

今後は、このような形に変わっていくのかもしれませんね・・。

針磨橋

針磨橋

「針磨橋」旧石碑の場所

石碑に書かれている文字は?

鎌倉十橋ノ一ニシテ往昔此ノ附近ニ針磨(針摺)ヲ業トセシ者住ミニケリトテ此ノ名アリトイフ

昭和十三年三月建 鎌倉町青年團

鎌倉十橋の一つで、昔この付近に針を磨くことを仕事にしている人が住んでいるということから、この名前があるという

昭和13年3月建 鎌倉町青年団

※間違っていたらごめんなさい(間違う長さでもないですけど)

補足

我入道橋(がにゅうどうばし)

針磨橋のもう一つの説に、極楽寺の塔頭に住んでいた「我入道(がにゅうどう)」という、お坊さんが針を磨いていたことから「我入道橋」とも言われているそうです。

七里ガ浜

またこの橋の下を流れる「極楽寺川」は七里ガ浜に注ぎますが、七里ヶ浜は海岸に砂鉄の多い砂があり黒っぽく見えます。この砂鉄で金属を磨いたようです。

黒っぽい砂

金洗沢(かねあらいざわ)という地名(峯ヶ原信号所の付近か?)が残っていて、源頼朝が金洗沢で牛追物を見たと吾妻鏡にも書かれています。

寿永元(1182)年 4月 5日条

武衛(源頼朝)が腰越辺りから江の島へお出かけになった。・・・その後お帰りになった。
金洗沢の辺りで牛追物が行われた。下河辺庄司和田小太郎小山田重成愛甲季隆らは射当てた回数が多かったため、それぞれ紺絹等を賜った

鎌倉十橋

鎌倉十橋についてはコチラの記事もご覧ください。

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