大慈寺跡|鎌倉幕府将軍繋がり、源実朝と宗尊親王ゆかりの大寺院(石碑を読む)

大慈寺跡|鎌倉幕府将軍繋がり、源実朝と宗尊親王ゆかりの大寺院(石碑を読む)

今回は金沢街道沿いにある「大慈寺跡」の石碑を読んでみました。
これも今は廃寺ですけど、当時は新御堂と言われていて物凄く大きなお寺だったようです。

今も残っていたら、報国寺等と共に観光名所になっていたかもしれないのに勿体ない。

大慈寺跡(だいじじ)

ちなみに源実朝の戒名は「大慈寺殿正二位丞相公神儀」
戒名が寺名になることは多々ありますから、大慈寺はここから来てますね。

「大慈寺跡」石碑の場所

石碑に書かれている文字は?

大慈寺ハ建暦二年源実朝ノ創建ニカカリ新御堂ト号ス
建保二年七月二十七日大供養ヲ行ハレ尼御政子及ヒ将軍実朝大ニ儀衛ヲ張リ之ニ臨メリ
後正嘉元年征夷大将軍宗尊親王ノ時本堂丈六堂新阿弥陀堂釈迦堂三重ノ塔鐘楼等ク修理ヲ加ヘラレ荘厳ノ美殆ント古跡ニキタリト東鏡ニ見ヘタリ
當時ノ盛観以テ思フヘシ
爾来星霜七百年布金ノ地マタ一片ノ礎石ヲモ止メス桑滄ノ変スヘキ

昭和三年三月建之 鎌倉町青年團

大慈寺は1212年(建暦2年)に3代将軍「源実朝」の創建によって造られ、新御堂と称した。
1214年(建保2年)7月27日に大供養が行われ、尼御台「政子」と将軍「実朝」に多くの護衛が付き、この行事に臨んだ。
その後、1257年(正嘉元年)征夷大将軍の宗尊親王の時、本堂、丈六堂、新阿弥陀堂、釈迦堂、三重塔、鐘楼等、ことごとく修理を加えられて、その美しさは創建当時以上であったと、吾妻鏡に書いてある。
当時の素晴らしい情景が思われますが、以降700年過ぎた今、この地では礎石の一片も見当たらない。
世の中は移り変わっていくのですね。

昭和3年3月建立 鎌倉町青年団

※間違ってたらごめんなさい。

事前知識(漢字・用語編)

:現在の「台」
儀衛:ぎえい|天使さま、お偉方などを警護すること
:コトゴト|あるもの全て
:イツ、う[せる]|すぎる、まさる、うせる、散る
爾来:じらい|それ以降
星霜:せいそう|としつき、歳月
桑滄:そうそう|滄海桑田の略(世の中の変遷が激しいこと)
:現在の「嘆」|タン|なげく、ため息をつく
:感動、詠嘆の終助詞|・・・だなあ。

石碑の後半は分からない用語ばかりで、結構ヘビーでしたね・・・。
理系人間とか、歴史初心者にはつらい・・・。

事前知識(歴史編)

正嘉元年

1257年。しょうか。1257-1259年。
第89代:後深草天皇、6代将軍:宗尊親王、6代執権:北條長時の時代。

宗尊親王(むねたか しんのう)

1242-1274年。鎌倉幕府6代将軍。

皇族で初めての征夷大将軍。後嵯峨天皇の第一皇子。
異母弟の後深草天皇から宣下を受ける。北条時の宗は、尊天皇が偏偉を与えた。

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その他 大慈寺について

光触寺(こうそくじ)との関係

大慈寺の丈六堂に祀られていてた、本尊「阿弥陀如来」の仏頭と言われるものが、光触寺(十二所)本堂に残っているようです。

丈六堂とは一丈六尺(約5m)の釈迦像をお祀りしているお堂、という意味だそう。

円覚寺舎利殿との関係

円覚寺舎利殿にある舎利骨(お釈迦様の骨)は、源実朝が宋のお寺から移して大慈寺に納めたものを、北条貞時(9代執権)が円覚寺に移したものと伝わります。

大慈寺の建立開始(吾妻鏡)

大慈寺については、吾妻鏡にもしっかりと載っています。

時の征夷大将軍が建てた大寺院。
鎌倉幕府の中枢メンバー(執権など)もお祝いに駆け付けている様子がわかりますね。

建暦2(1212)年 4月18日

晴れ。源頼朝の御願として、大倉郷に良い場所(地勢や風景)を選んで一寺を建て始められ、午の刻(12:00)に立柱・上棟が行われた。これは君の恩や父の徳に報われるため。
これに、相州(北条義時)武州(北条時房)大管令(中原(大江)広元)らが参られた。

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