【案内板】鎌倉これあらた(維新)の設置場所

【案内板】鎌倉これあらた(維新)の設置場所

2020-04-26

鎌倉市がクラウドファンディングで支援者を募って、市内各所に案内板を設置するプロジェクトの第一弾。
2017年1月13日から募集を開始しました。

1万円の寄付者には案内板に名前が刻まれます。

観光客の分散も目的の一つなので、鎌倉市内各所に散らばっています。その案内板を実際に見に行く鎌倉散歩もいいですよね。

ココでは、「鎌倉これあらた」の案内板5つ全部を公開しています。

鎌倉これあらた案内板 設置場所地図

法華堂跡

薩摩藩・長州藩ゆかりの墓が並ぶ法華堂跡

 法華堂跡の東谷奥には、頼朝を補佐し幕府の土台を築いた「大江広元」、広元の四男である長州毛利氏の祖「毛利季光」、頼朝にゆかりのある薩摩島津氏の祖「島津忠久」の墓が並びます。
 いずれも江戸時代後期に薩摩藩・長州藩によって整備されました。

・YouTubeで法華堂跡(北条義時墓)を見る

鎌倉宮

幕末関連の書が陳列される鎌倉宮宝物殿

 鎌倉宮は明治天皇の勅命により、護良親王を祭神として明治二年に創建されました。宝物殿には、親王の歴史絵のほか、長州出身の伊藤博文、尊王攘夷を唱えた水戸藩主徳川斉昭、「幕末の三舟」と呼ばれた勝海舟・孝八泥舟・山岡鉄舟らの書が陳列されています。

・YouTubeで護良親王の墓を見る

瑞泉寺

長州藩士吉田松陰と瑞泉寺

 かつで、吉田松陰の伯父「竹院和尚」が住職を務めていた瑞泉寺。嘉永六年(1853年)5月、松陰は伯父を瑞泉寺に訪ね、語り明かし、ともに鎌倉・江ノ島を巡りました。
 その後、ペリーの浦賀来航を間近に見た松陰は、翌年、下田で密航を企てる直前にもここを訪れています。山門の前には「松陰吉田先生留跡碑」があります。

小動神社

幕末相模湾の防備を固めた腰越八王子山遠見番所

 天保十三年、当時の鎌倉郡腰越村は、幕府から相州警備を命じられた川越藩の管理のもと、恒常的な海防への協力を余儀なくされました。
 ここ小動神社展望台の左手には、かつて番所が置かれ、主に異国船渡来の通報拠点としての役割を担ったとのことです。

下馬交差点

鎌倉でも起きていた英国士官殺傷事件

幕末・維新の時代には、各地で攘夷思想による外国人殺傷事件が起こりました。ここ鎌倉の下馬の交差点付近でも、元治元年(1864年)10月22日、横浜から遠乗りで鎌倉見物に来ていた英国士官2名が浪人に襲撃され死亡する、という事件が起きています。

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