阿仏尼|鎌倉時代の紀行文「十六夜日記」で巡る鎌倉散策、浄光明寺他

阿仏尼|鎌倉時代の紀行文「十六夜日記」で巡る鎌倉散策、浄光明寺他

2022-06-06

今回は、鎌倉時代の紀行文「十六夜日記(いざよいにっき)」を起点に、鎌倉検定本の範囲内を中心に鎌倉を見て行きたいと思います。

十六夜日記とは

十六夜日記は紀行文日記
作者は阿仏尼(あぶつに)。簡単に言うと、阿仏尼さんによる女性の旅行記ですね。

・京都から鎌倉への道中記
・4年間の鎌倉滞在記
上記の2部構成になっています。

日記のスタートが10月16日だったことから、後々16日を取って十六夜日記になったとか。

弘安2年(1279年)10月16日に京都を出発、10月29日に鎌倉へ到着する行程です。
京都から不破の関、熱田、浜名湖、そして箱根を越えて鎌倉へ。

十六夜日記自体はそれほど長い紀行文ではありませんので、読もうと思えば一日で読破できるページ数です。

簡単に、毎日どこに泊ったとか、川を渡ったとかの記録があって、あとは今の気持ちを詠んだ歌で内容は占められています。子どもたちを京に残して一人鎌倉へ旅立ったため、道中に京や子供たちの事を想って袖を濡らす・・・などの詩ばかりです。

中世三大紀行文とは

中世(鎌倉時代頃)に完成した旅行系日記には、中世三大紀行文と言われたものがあります。

海道記(1223年成立)  → 鎌倉の見聞記(永福寺が記載されている)
東関紀行(1242年成立) → 京都から鎌倉への道中・滞在記(作者未詳)
十六夜日記(1283年成立)

※成立時期はいずれも想定。

鎌倉時代になると、東国に幕府ができて、京との往来が必要になってきたので、街道や宿場が発達し、旅がしやすくなり、一般人の旅行や社寺訪問なども増えていったようです。

そのせいもあって、多くの紀行文は、京から東国へ向かうものが多くなったとか。

作者 阿仏尼(女性)

作者の阿仏尼さん。1222年生まれ?~1283年に死亡(61歳)。鎌倉中期の女流歌人。
死亡する前の4年間月影ヶ谷に住んでいたということなので、鎌倉に来たのは1279年ですね。

名前の通り尼さんです。10代の頃に失恋して出家したとか。若気の至りなのか?・・・。

月影ヶ谷(鎌倉市極楽寺3丁目)は江ノ電極楽寺駅の南西側にある谷の名称です。
ちょうど、月影ヶ谷の入り口付近(江ノ電の踏切がある場所)に石碑が建ってます。

江ノ電極楽寺駅の北西側は西ヶ谷といわれる地区なのですが、ここに「月影地蔵」があります。
昔、月影ヶ谷にあったので(今は移設後)この名前なんですね。

鎌倉は、〇〇谷の名称とその場所を覚えて行くと、散歩がとても楽しくなりますよ。

月影地蔵

息子の裁判問題で鎌倉へ下向

阿仏尼は30歳前後で藤原為家という藤原定家の三男の側室になります。
 ※藤原定家(阿仏尼の義理父)は、小倉百人一首の撰者と、明月記(日記)で有名な公家。ええとこの血筋です。

でも、側室ということなので、正室も居て、そこに子供が2人。阿仏尼にも子供が2人。
つまり為家の子供は4人。

はい、相続等で揉めそうですね(汗)

で案の定、領地の相続関係で、正室との子供「為氏」と実子の「為相(ためすけ)」が揉めて、それを幕府(当時は北条時宗)に訴えるために鎌倉に下向したという流れですね。子供を守る母親の気持ちが出てますよねー。

冷泉家とは

京都好きなら聞いたことがある冷泉家。800年近くも続いている「和歌の家」。

この冷泉家の始祖が、阿仏尼の実子「為相」なんですね。なので、冷泉為相っていう名前が一般的に使われていると。当初は平安京の冷泉小路(今の夷川通?)に居たから、冷泉家という名前とか。

今度、京都に行ったら夷川通に行ってみようっと。

阿仏尼ゆかりの場所(鎌倉)

ゆかりのお寺「浄光明寺」

さて、冷泉為相の墓が何故か鎌倉にあります。
母の阿仏尼は京都から鎌倉へ下向しているように、冷泉為相は、もともと京都で住んでるはずなのです。

で、いろいろ調べて行くと。

阿仏尼が鎌倉へ行って訴えてるけど、そこに、子の為相も度々鎌倉へ行って訴えてたみたい。(訴えには勝訴)
また、ついでに鎌倉で和歌の指導もしてたと。その時住んだのが「藤ヶ谷」。浄光明寺がある付近です。

さらには、為相の娘が鎌倉8代将軍「久明親王」に嫁いで、子供の久良親王を生んで、将軍家ともつながりを持ったんですね。
それで、晩年は鎌倉に移住して将軍を補佐するようになったということ。

前半は京都に住んでいましたが、人生の後半は鎌倉で過ごしたゆかりの人物ですね。

浄光明寺は冷泉為相の墓と伝わる宝篋印塔あって、その一角には多宝寺址やぐら(非公開)もあります。


また、冷泉為相は正二位中納言(お偉いさん)になって、鎌倉で住んでいた場所の「藤ヶ谷」にちなみ、藤谷黄門って言われていて、その石碑が浄光明寺の入口に建ってます。

浄光明寺の境内の奥(阿弥陀三尊像)は拝観時間が決まっています。
木土日祝日の午前(10:00-12:00)午後(13:00-16:00)。雨天と8月は拝観NGです。拝観料200円。

また、ブラタモリでタモリさんが鎌倉に来た時に立ち寄ったお寺でもありますね。

伝阿仏尼の墓

そして、阿仏尼のお墓と言われている小さな祠のような場所が、英勝寺のかつての境内にあります。

実子の冷泉為相が眠っている浄光明寺とは目と鼻の先。
今は、JR横須賀線が浄光明寺と英勝寺の間を通っていて、回り道しないとダメですけど直線距離は近いですね。

大通寺(京都)

源実朝の妻が夫の菩提を弔う為に建立したお寺。
「尼寺」として親しまれて、「十六夜日記」の著者阿仏尼も入寺、夫の藤原為家を供養したと伝わります。

境内には阿仏塚があるようです。一般非公開。

阿佛邸旧跡(石碑)

鎌倉滞在中に阿仏尼が住んでいた「月影ヶ谷」に、「阿仏尼邸旧跡碑」が建っています。

阿佛邸旧跡|京から出てきて月影ヶ谷へ、紀行文「十六夜日記」の著者(石碑を読む)
阿佛邸旧跡(あぶつに|石碑) 「阿佛邸旧跡」石碑の場所 実際に阿仏尼が住んでいた場所は石碑よりもっと谷の奥側と言われています。石碑は江ノ電沿いにあって、江ノ電と…
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なんか色んな物語を知っていくと、史跡の場所とかもすごく納得感がでてきて楽しいですね。
知らないと、ふーんで終わってしまいますけど・・・。

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